皮革関連産業の歴史と木下川小学校


木下川小学校の成立と廃校への歴史は、皮革鞣し業のこの地区での盛衰と密接に関わっています。
この町がどのように皮革産業と共に進んでいくのかは、これからの大きな課題になっています。


1.皮革なめしのはじまり
 1883年(明治16年)ごろ、この木下川にできたといわれる皮をなめす工場は、1893(明治26.7年)には、5.6軒になりました。
その後、皮革なめし工場は、1892(M.25)年の警察令「魚獣化製場取締規則」が制定され、地区が大きく皮革なめしの町として形成されるようになりました。
この規則は、「魚獣ヲ原料ト為シ、油、脂肪、膠、鞣、肥料其他工業材料ヲ製造スル」業者を対象に、市外以外の建設を許さず、市内の業者はM.34年12月31日までに、つまり10年の猶予期限をもって市外への移転を命じられました。
浅草亀岡町、新谷町にあった皮革なめし業は、ここ木下川と三河島に移ってきました。ここでいう木下川とは、吾嬬町7丁目(現東墨田2丁目)のことです。皮革に直接関係のある油脂業も1889年(明治.22年)に1軒創業し始めています。
骨で骨粉を作り、油を取ったりしました。さらに膠(にかわ)を取ることが始められていきました。

2.荒川放水路ができ上がる
 葦っ原と田んぼで、とても工場や家を建てる場所ではなかったといわれるこの地区は、「製皮業になるなら、泳ぎを先に習え」と言われるほど、昔から大雨が降ると荒川の堤防が壊れて、たびたび大水に見舞われました。中でも、1910年(明治43年)の大水は大変なもので、墨田区中が海のように水浸しになりました。  そこで大水を防ぐために、荒川放水路を作る計画が立てられました。荒川放水路は、1913年(大正2年)から工事を始めました。今の北区の岩淵という所から、海までの24キロメートルという長い距離です。
全部を掘り終わるのに18年もかかりました。この工事がすっかり完成して、初めて水が通るようになったのは、1930年(昭和5年)のことでした。
 荒川放水路ができてから木下川の様子はたいへん変わりました。
放水路の幅は400メートルありますから木下川の面積は前の半分くらいに減ってしまいました。
そして今までそこに住んでいた人たちも、今の木下川と川向こうの本田村(今の四つ木、東四つ木)の方へ移っていきました。
耕す土地が狭くなったので農業を続けていく人の数は次第に減っていきました。こうして木下川は年ごとに静かな農村から町の姿に変わっていったのです。

⇒3.皮工場の発展へ

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